雪うさぎがくれたもの(前編)
扉を開けたとたん、ネコ娘はその寒さにぶるりと震えて、首に巻いたマフラーを唇の上まで引っ張りあげた。
外はすでに闇が支配する夜の世界だ。
にゃっ、今日は一段と寒そうね……と思いつつ、ネコ娘はくるりと首を後ろにまわして、声をかける。
「それじゃあ、お先に失礼しまーす」
「暗いから気をつけてね」
「はあい、じゃあまた明日も、よろしくお願いします」
中にまだ残っているバイト仲間や上司達は、笑顔でネコ娘を見送ってくれる。
「うわあ、寒そうだなあ!」と誰かが声をあげたのに小さく苦笑を残して、扉を閉めた。
夜の人間の街を歩く。
日本の中枢であるこの東京の街は、眠ることを知らない。冬、それも時間帯は夜だというのに街は光に溢れている。店の傍でたむろう若者達、どこかテンションが高い背広姿の中年の集団、腕を組んで歩く恋人。
本当に人間達は陽気だ。いつしか時代は変わり、人間達は当たり前のように夜にも活動をし始めた。その姿は自分達妖怪とほとんど変わらないのではないだろうか―――。
そんなことをぼんやりと考えながらも、ネコ娘は足を横丁へと急がせる。
寒くて仕方がないし、お腹がすいているからはやく帰って晩ご飯を食べたい。そんなことを思いながらもくもくと歩いていたネコ娘だったが、いつしか彼女の足どりと心は重いものへと変わっていた。ずっと考えないようにしていたことなのに―――どうしてもだめだ。
無意識に違うことを考えようと努めているのに、気がついた時には、どうしたって彼のことしか見えなくなってるのだ。
「……鬼太郎……」
浮かんだのはゲゲゲハウスの窓から頬杖をついて外を眺めた姿の、ネコ娘の幼なじみであり、他の誰よりも自分にとって特別な存在の彼だった。
彼の――鬼太郎の色んな表情を知っているのに、今のネコ娘の真新しい記憶の中に浮かんだ彼の姿が、後ろ姿しか見えないのはここ最近会っていないからだろうか。
――喧嘩を、した
その時のことを思い出して、ネコ娘はその場に立ちどまって、視線をアスファルトへと落とした。
喧嘩――といえるものだったかわからないけど、本当に始めは些細なことだったと思う。それもあたしの身勝手な、一方通行のような。
●●●
あの日――
ネコ娘はいつものように、ゲゲゲハウスへと遊びにいったのだ。人間の友達に貰った美味しい菓子を(一緒に猫のぬいぐるみも貰った)鬼太郎と目玉の親父と一緒に食べようと思った。
――けれど。
簾を上げた先に居た鬼太郎は、何やら熱心に手の中にあるものに視線を落としていて。
何か尋ねれば、以前に助けた依頼人からの手紙だと、彼は教えてくれた。それだけなら、ネコ娘も「よかったね」と素直に思えたのだけど、どうやらそれだけではいかなかった。
お茶の用意をして、持ってきた菓子を卓袱台に並べても、鬼太郎は一向に顔をあげなかった。視線は手紙から離れない。
時折、手紙の文字を追っている鬼太郎が、かすかに頬を染めたり、口元を緩める。
目玉の親父は慣れたことなのか、特に気にする素振りを見せずに、彼女が持ってきてくれた菓子にありつく。そんな中で、鬼太郎をほんの少しだけむすっとした表情で、卓袱台に頬杖をつきながら眺めていたネコ娘だが、いつまで経ってもこちらを見ない鬼太郎に、何故か腹が立ってしまって――吐き捨てるように言葉をぶつけてしまった。
「――なんか、男の人って不潔よね」
ぼそりと、けれど鬼太郎に聞こえても構わないと思いながら口にしたネコ娘のそれに、やっと鬼太郎が顔をあげた。
どうしたの、という感情が顔に表れている。
「ネコ娘?」
「だってそうじゃない。鬼太郎だって、好いてくれる女の子なら、誰だっていいんでしょ」
「………それ、どういう意味だい?」
しまった。
そう思ったがもう遅い。鬼太郎の、1オクターブ程下がったような低い声が聞こえてきて、ネコ娘はほんの少し、びくんっと身体を揺らした。
が、ネコ娘はもう後には戻れなくなっていた。
……どういう意味って、そのままの意味じゃないの……
鬼太郎の普段の様子を見ていれば、きっと誰だって思うことではないのか。
依頼人が女性――特に年上の美人で、なおかつ穏やかな人に鬼太郎はいつも優しい。時には頬を染めたりだって、珍しいことでもない。
そしてそんな鬼太郎を、自分はずっと傍で見てきたのだ。その胸の内に彼を想う気持ちを持ちながら。
……だけどいつも……。
いつだって。
鬼太郎がネコ娘に対して何かを示すわけでもない、何かを言ったりすることはない。助けにきてくれたとしても、それはきっと大切な“仲間”だから。
けれど時々思うのだ。彼は鈍感で自分の気持ちに気づいてないだろう、そう思うのとは反対に、鬼太郎は自分の気持ちを知ってるくせに、と。
鬼太郎が何を考えてるかなんて自分にはわからない―――わからないからこそ、時に鬼太郎の一言に胸が苦しくなる程に傷ついたり、苛立ちを覚えてしまうことが、ネコ娘にはあったのだ。
――そこまで考えてしまうと、押さえきれない何かが込み上げてくる――
ネコ娘は絞り出すように、蚊が鳴くように、その唇から先程、心に浮かんだ言葉が溢れた。
「……どういう意味って、そのままの意味じゃない……」
「だからそれじゃ わからないじゃないか」
「――!」
抑揚のない鬼太郎の声。けれどそれは、呆れたような、ほんの少しの苛立ちを含んだものだった。いつものネコ娘ならば、彼を怒らしただろうか、とその方面を気にしたはずだが、そんなことすら今の彼女は気がつかない。
ただただ、鬼太郎の発した言葉にカッとなってしまった。本当にわからないの、鬼太郎は?と―――。
ネコ娘は衝動のまま動く。
床に置いてあった猫のぬいぐるみを、鬼太郎に向かって投げつけた。
――ばふんっ!
「うわっ」
「ひゃあ! な、なんじゃなんじゃ?!」
とっさに腕を瞳の前にかざす。ネコ娘が投げつけたぬいぐるみは、ぽすん、と小さく音をたてて床に落ちた。卓袱台の上でシュークリームのカスタードの部分を頬張っていた目玉の親父も、かすかに伝わってきた振動に、その小さな身体がぽてんと床に落ちる。
柔らかい素材のぬいぐるみだったので痛さはさほどない――それよりも鬼太郎は、いきなりの幼なじみの行動のほうに呆然となってしまった。
おそるおそる、だけどできるだけ優しい声色で彼は彼女の名前を呼ぶ。
「……ネコ娘?」
けれど時既に遅し。
ネコ娘はバンっと両手を卓袱台につけると、持ちうる限りの声で叫んだのだった。
その声はどこか震えていたかもしれない。
「鬼太郎のバカッッッ!!」
そう彼女が叫んだ直後。まるでゲゲゲハウスの中だけ時間が止まったような空気になる。
外界では空を鳥が飛び、何処かでいろんな音が聞こえるのに、鬼太郎の耳には何も聞こえない。
ただ息をするのを忘れてしまったかのように、瞬きひとつせずに鬼太郎は卓袱台を挟んだネコ娘に釘づけになっていた。
その表情は「一体なにが起こったのかわからない」というようなもので。目玉の親父もただ静かに二人を……事の行方を見守るように、床の上から見上げている。
誰もが動かない。動けなかったのだ。
一番にそれを、時間を動かしたのは、他でもない。ネコ娘であった。
滲み始めていた目元をこれ以上見せないかのように、すくりと立ち上がる。それに反応したのは鬼太郎だ。「あ……ネ、」ネコ娘、と呼ぶ間もなく先に唇を開いたのは彼女。
「――ごめん。あたし、帰るね!」
それだけを残してネコ娘は、とたとたと床を鳴らしながら入り口に――外へとその小さな姿を消した。
……ぱさり。
彼女が上げていった簾が元に戻る。その音すらも何故だか悲しいものに聞こえたような気がした。
●●●
ふわり
ネコ娘は見つめていた足元に何かが落ちたのに気がついて、思考が戻る。
聞こえてくるのは先程と同じ夜のざわめき――だったが、ひとつ違った。
周りに居る人々が声をあげ、空を見上げる。
「ねえ、これって雪じゃない?」
「ほんとだー」
……え、雪?
女性の高い声に、ネコ娘もつられるように空を見れば、ちらちらと舞い落ちてくる白いもの。手のひらをそっとかざせば、それは手のひらの上にも落ちてきて一瞬のうちに溶けていく。
確かにこれは雪だわ、と思うと同時に、いつもより冷え込んだ理由がわかった。
周りで様々な反応が起こる中、同じように空を見上げていても、紙吹雪のような雪の中、浮かぶのは、彼。
――――きたろ……
ネコ娘の小さな呟きは、降り落ちる雪と暗闇に混じって、誰に気づかれることなく溶けていった。
しゅんしゅんしゅん。
パチパチと燃える火で沸かしたやかんの口から零れる水は、かすれた音をたてながら湯気をあげる。
鬼太郎は楽しそうに風呂の用意をする父に微笑みながら、それを茶碗に注いでいく。
「用意ができましたよ、父さん」
「おお、気持ちよさそうじゃのう」
身を浸した父を確認して、鬼太郎は壁に背をついた。
「いやいや、極楽だのうー」
よっぽと心地よいのか、鼻歌を歌い出した父に苦笑する鬼太郎だったが、心の中には今日もまた彼女が浮かぶ。
もうあれから結構経ってしまった―――。
鬼太郎もまた、あの日のことを思い出していた。
●●●
あのすぐ後、男二人が残された中。
穏やかに、そして語りかけるように、そっと父が息子に言葉をかけた。
「……鬼太郎や」
「……はい」
「父のわしが言うのもなんじゃが、おまえは口数が少ない子じゃ。それでいて肝心なところで、余計にわかりなくい」
咎めではない。
息子もきっと自覚しているであろうことを、改めて言葉で表してみる。
目玉の親父はぴょん、と飛び乗った卓袱台の上から、更に自分より大きな鬼太郎を見上げてみる。
その顔は神妙で――ちゃんと自覚しているのだとわかるものだった。
自分より姿形は遥かに大きな息子だが、やはり父の自分からしてみればまだまだのようだ。それが愛おしく嬉しいと思ってしまうのは、自分もまた息子離れができてないからであろう。
そんなことを考えて優しい顔になる目玉の親父はいつも何よりも自分を優先し、敬愛してくれる息子に、続きの言葉をかける。
「それが悪いというわけではない。……だがのう、時として言葉にしてみるのもまた必要であり、良いものじゃ」
「言葉に……」
「そうじゃ」
息子にとってあの娘(むすめ)が大切なのは間違いないだろう。幼なじみであるネコ娘。自分とも、横丁や他の仲間の妖怪ともまた違う存在にあることは確かだ。
――ただ、ネコ娘の息子に対する「好き」と同じ「好き」という気持ちを、この鬼太郎の中にあるかどうかは――たとえこの父といえど知るところではない。
それだけは。
心というものだけは、自分だけが知ることのできる物で、場所なのだ。
「父さん」
「うん?」
「僕にとって………ネコ娘は確かに他の皆(みんな)と違う娘だと、思います」
「そうか」
「……はい」
どこか苦しそうな無表情に近かった鬼太郎の顔と声が、少しだけ優しいものへと変わったのを、見逃さなかった。
目玉の親父はそれ以上の何かを言うことなく、再び菓子にありつきながら、最後に一言贈った。
「ちゃんとネコ娘と仲直りするのじゃぞ、鬼太郎や。しかし、今はそっとしておいたほうがよいのかもしれん」
「……今回は激しかったですからね、彼女……」
鬼太郎は苦笑を漏らしながら、目にとまったものを拾いあげた。
ネコ娘が自分に投げつけてきた猫のぬいぐるみ。その彼女と似た愛らしい瞳が、鬼太郎を見つめる。
鬼太郎はくすりと笑うと、つんと猫の頬辺りを突いた。
「おまえのご主人様に、どうやって謝ろうか」
猫は何も答えない。
●●●
鬼太郎は彼女がそのまま置いていった猫のぬいぐるを、俯きながら見つめていたが、父の言葉に顔をあげた。
「ん?――おお、鬼太郎。雪じゃ」
「雪、ですか?」
鬼太郎はほんの少し驚いて、窓辺に寄ると、そこから空を見上げた。
外はもう夜だから暗くなにも見えない。それは空も同じはずだなのだが、今日は違った。
ゲゲゲハウスから零れる光のおかげか、確かに空から舞い落ちる雪が見えたのだ。それは音もなく、ゆったりとした一定のリズムを奏でている。
いつのまにか茶碗風呂から出て自分の隣に並ぶ父が、「またこれから、一段と寒くなるのう」と呟いたのを聞いて、「そうですね」と相づちを打つ。
――ネコ娘は寒くないだろうか――
あれから何度か謝りに行った鬼太郎だったが、その彼女がずっとバイトで会うことはできなかった。
ネコ娘もまた、あれからここに来ることはなくて。ここ数日は、妖怪ポストにも手紙が届くことがなく、鬼太郎の周りはいつになく静かなものだった。
今日もネコ娘はバイトなのだろう―――もう、帰っただろうか?
彼女はネコ妖怪だから寒さに弱い。
いつになく彼女が気になってしまう。いや、ネコ娘に会いたいな………と心から思う。
……仲直りを
僕達はちゃんと、できるだろうか。
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