雪うさぎがくれたもの(後編)
「あたしの馬鹿……っ! どうして気づかなかったのよ……?」
ネコ娘は「それ」を前にジリジリと後ずさっていた。
目の前の妖怪――白く巨大なそれは、のそりと間合いを詰めてくる。
どうしよう……ネコ娘は答えを導きながらも、何度目かわからない叱咤を自身にした。
目の前の雪に夢中になりすぎていて気づくのが遅すぎた。気がついたのは、この妖怪の爪が身体をかする直前だ。
それからのネコ娘は攻撃をかわすので精一杯が現状だった。爪でひっかけたとしても、その身体はたちまちに元に戻ってしまう。とにかく今はただただ、かわすことしか出来なくて――。今もまたギリギリのところで飛んでかわすことができたのだが―――
「にゃっ?!」
飛んだ空中の最中、ネコ娘は手の中にあったものが不意の風によって、雪の上に落ちそうになったのに気づくと、慌ててそれに手を伸ばして、何とか落下は免れた。
と同時に彼女自身もいったん雪の上に足をつけたのだが―――その直後に前方から妖怪が襲いかかろうとしていた。
ネコ娘はとっさに瞳を固く閉ざした。
―― 鬼太郎 !
「ネコ娘!!」
見えない視界の中、耳に届いたその声は、他でもない。
――鬼太郎のものだった。
それを心が理解するよりも先に、ふわりと自身の身体が浮いたのを、ネコ娘は感じた。
ゆっくりと瞼をあげれば、目の前には鬼太郎の真剣な瞳があった。
どうやら鬼太郎が危機一髪で、抱き上げて飛んでくれたみたいだ。
再び、彼がとんっと地面を蹴ったのがわかった。
「きたろー………?」
「……大丈夫かい? ネコ娘」
風が二人の髪を揺らす。
ネコ娘は、久しぶりに見た大好きな彼にゆるゆると身体から力が抜けていくのを、感じとった。
熱いものが自然と瞼の奧に込みあげてくる。鬼太郎、ともっと名前を呼びたかったが、状況がそれを許さない。
鬼太郎は安全な場所にネコ娘をそっと下ろすと、安心させるように微笑みかけた。
「後は僕にまかせて」
「…鬼太郎っ……」
「大丈夫」
鬼太郎は最後にもう一度だけ、この大切な幼なじみに微笑みかけると背を向けた。
その姿は、ネコ娘が久しぶりに見た何にも負けることがない、鬼太郎の姿だった。
●●●
「ネコ娘。どこも怪我はないかい?」
「――うん」
「よかった……立てる?」
全てが終わるのに時間はかからなかった。
鬼太郎は妖怪が消滅するのを見届けると、いつもの彼に戻ってネコ娘の傍まで戻ってきてくれた。膝をついて彼女の無事を確認すると、鬼太郎は立ち上がる。そうしてネコ娘に手をかした。
……君が無事で本当によかった……。
鬼太郎は心の奥底から安堵の思いがこみ上げる。ほっとしたのも束の間――鬼太郎はネコ娘の傍に置かれたものに目を奪われた。
「ねえ、ネコ娘。それ……」
「え?―― あっ、これは」
ネコ娘が恥ずかしそうに手に乗せたのは、雪で作った“雪うさぎ”だった。
……まさかここに来るまでの間に思い出していたそれを、目の前に佇む彼女が作っていたなんて。
鬼太郎はくすりと笑った。
そんな彼にネコ娘は首を傾げてみせる。
どうしたの、と尋ねれば鬼太郎は懐かしむように言葉を紡いだのだった。
「昔――僕達がまだ幼かった頃にも、作ったことあるよね」
「え?」
「そうだ。確か、その時も君と喧嘩をしてしまったんだ」
「あ………!」
遠き昔の思い出が、鮮やかに鬼太郎とネコ娘の中に蘇っていく。
そうだ。
あの時も。
●●●
『やだあ!うさぎさんもお家に一緒に入るの!』
『だからね、ネコ娘。うさぎは一緒には入れないよ。溶けてしまうだろう?』
『そんなことないもんっ』
ぶんぶんぶんっ
鬼太郎は自分の目の前でもう何度目か、その小さな頭を振る少女を前に、困りはてていた。
しんしんと雪が降る中で、少女――ネコ娘が頭を振る度に揺れる、髪に結ばれた真紅の大きなリボンだけが、やけに鮮やかに映える。
鬼太郎はどうしたものか……と言葉なく立ち竦んでしまっていたが、やがて聞こえてきた声に縋るように視線をやった。
『どうしたのじゃ、二人とも?』
『父さん!………ネコ娘が、雪うさぎを家に持って入るって言うんです。それは溶けてしまうから、だめだよって教えてるんですが』
『ほう――雪うさぎとな』
ゲゲゲハウスの簾から出てきたのは鬼太郎の父だった。
目玉の親父は、ぴょんと飛んで鬼太郎――ではなく今日はその彼の幼なじみの少女の肩に飛び乗る。
そっとネコ娘の小さな手の上を覗き込めば、確かに可愛らしい雪うさぎが乗っているではないか。
『上手いものではないか、ネコ娘』
『ほんと!?』
『わしは嘘はつかまいて……じゃがのう、ネコ娘や。鬼太郎の言う通り、こ奴を家に入れれば、死んでしまうんじゃ』
『……死んじゃうの?』
ネコ娘は幼なじみの彼の父親の言葉に、眉をこれでもかというくらいに悲しそうに寄せて、手の中にある雪うさぎに視線をやった。
その大きなアーモンド型の瞳は今にも零れ落ちてしまいそうだ、と思うくらに揺れている。そんなネコ娘を間近で見ている目玉の親父は、その滑らかな頬を優しくさすってやって――慰めるように言葉をかけた。
『こ奴が幸せでいられる場所に、お主が置いてやればよい』
『……うん』
こくり。
ネコ娘は頷いた――のだが
『きたろっ あたし、うさぎさんにつけてあげるリボンを取ってくるから、持っててくれる?』
『いいよ』
『ありがとうっ! ぜえったい、落としちゃだめよう!』
『うん』
確かに約束した。
したけれど。
それは守られることはなかったのだった。
●●●
「――あの後、君が戻ってきた時にはもう、あの雪うさぎは落ちてしまってたんだよね」
「うん。でも、あれだって鬼太郎のせいじゃなかったじゃない」
約束した後。ネコ娘が戻れば、雪うさぎは雪の上に落ちてしまっていたのだ。
雪と混じり合った身体。その雪の上に残った緑の葉と赤い南天の実。それらを見つめていた鬼太郎だったが、ふと視線を感じて顔をあげると、そこには悲痛な顔色のネコ娘がいた。
彼女の瞳の縁には、じわりと涙が浮かんでいて―――。
あ――と鬼太郎が口を開く前に、ネコ娘は両拳をぎゅううっと握りながら今回と同じようなことを、彼に言った。
――きたろうなんて、だいっきらい!――と
けれど真実は違った。
あの時の全ての元凶はあの男……ネズミ男だ。
ネコ娘が走っていったのと入れ替わるように、鬼太郎の元にやってきた。
目的は今と変わらないたかりだ。その時に不意打ちで鬼太郎の背中をバシバシと叩いてしまい――雪うさぎは鬼太郎の手の中から落ちてしまったのだった。
鬼太郎は何ひとつ悪くなんてなかったのに。
「ほんっっと!昔からネズミ男はろくな事しないわよね」
「はは……でもまあ、あいつも悪気があったわけじゃなかったみたいだし。それにやっぱり落ちるのを防げなかった僕にも非はあったよ」
「んもうっ だから、鬼太郎は悪くなかったんだからね」
小さく唇を尖らせて俯き加減になってしまいそうになるネコ娘に、鬼太郎は声なく笑って、ゆっくりと歩きだした。
え。どこにいくの、とそれに気がついた彼女は顔をあげる。
鬼太郎は迷うことなく歩いていくと「うん。ここなら大丈夫そうだ」と一人ごちて、その場にしゃがみこんだ。
そんな鬼太郎の行動を、首を傾げながら見守っていたネコ娘だったけれど、さくさくと彼の傍まで歩いていく。
「鬼太郎、どうしたの?」
「僕も作ろうかなって思ってね」
「え?」
何を?
ますます訳がわからないネコ娘は、鬼太郎の隣に同じように膝を折った。
視線をやれば鬼太郎の何もはめていない手は、雪を掻き集めている。
「きたろー」「……うん?」 「何を作ってるの?」 鈴を転がすようなあまい声が鬼太郎の耳元に響く。鬼太郎はつりあがった、けれども愛らしい瞳を瞬かせるネコ娘に一度だけ微笑みを向けて。
「雪うさぎだよ」
「え?――鬼太郎、が?」
「うん」
「どうして?」
「君にあげようと思ってね」
「へあ?」
……あたしに? 鬼太郎が?……
「いらなかったかい?」
「そ、そ、そんなことないっ!!」
ぶんぶんっ!
頬を蒸気させながら、頭(かぶり)をふる幼なじみ。
鬼太郎はそんなネコ娘を可愛いと思った。
本当に――揺れるリボンも、紅色の頬も、どこか潤んだような瞳も。すべて。
鬼太郎の心を痺れさす。
そんな男心を知らないネコ娘もまた、嬉しさから心臓が落ちつかなかった。
それと、今なら――。
……今なら言えるだろうか?
ネコ娘は、どこか楽しそうに雪うさぎを作る鬼太郎を一瞥して、膝を抱えながら声を絞り出す。
「鬼太郎」
「ん?」
「…………ごめんね」
「………何に? 昔のこと?」
「にゃっ?!」
いつかどこかで似たようなやりとりをした気がするのはネコ娘だけだろうか。
きょとんとした表情の鬼太郎に、ネコ娘は違う意味で頬を染めて、拳を作って鬼太郎の腕をく。
相変わらずの彼。
また、それがわざとなのかわからないからよけいに質が悪いのだ。
「もうっ 鬼太郎ったらっ! 絶対、あたしが言いたいこと わかってるくせに!」
「なんだい? 言いたいことって」
「き、た、ろー?」
ぽかぽかと叩くネコ娘に、鬼太郎はただ可笑しそうに笑う。 「もうっもうっ」と頬を風船のように膨らませて怒ってくる彼女に、鬼太郎は「ネコ娘」とその手をやんわりと手にとる。
鬼太郎にすれば無意識のことなのだが、ネコ娘にとっては心臓が鳴るには十分で。
ほんの少しだけ、上擦ったような声で彼を呼んだ。
「きっ、鬼太郎?」
「僕のほうこそ――ごめん」
「……」
ふっと破顔していた鬼太郎の顔は真剣で、けれど慈愛に満ちたようなもの。
ネコ娘はただ唇を閉ざして、続きを聞くことしかできなかった。
いや聞きたかったのだ。
鬼太郎は自分を揺れる瞳で見つめるネコ娘にこれ以上ないくらい、優しい声で語る。
伝わってほしい。
僕にとって君は特別だということを。
「君は僕の大切な人だよ」
「……あたしが?」
「うん。君は、ネコ娘は僕にとって唯一の幼なじみで、仲間で、友達で」
「と――」
「でもね。きっと………それだけじゃないんだ」
友達。その言葉に胸が締めつけられるように苦しくなったネコ娘が、おもわず呟きそうになったけれど、まるで“それ以上言う必要はないよ”と言うように、鬼太郎は言葉を続けた。
鬼太郎の発言に、ネコ娘の瞳は大きく見開いたと同時に、頬はほんのりと色づいていく。
それを見て鬼太郎の心はどこか満たされる。
――彼女に……ネコ娘にこんな顔をさせれるのは、自分でいたい。僕だけがいい、と――
鬼太郎はネコ娘の手を離してゆっくりと立ち上がる。
「――あ」 どこか名残惜しそうなネコ娘の声にはやる鼓動を抑えつつ、彼女を見下ろした。
「うさぎにつける瞳の南天を、取りにいかなくちゃね」
彼女とこうやって自然に話せたのは、きっと「雪うさぎ」のおかげだ。
きっかけを鬼太郎に与えてくれたもの。遠き昔の懐かしい思い出とともに、この優しい時間をくれた。
そんな雪うさぎを綺麗に作ってあげたいと鬼太郎は思ったのだ。
「一緒に来るかい?」そう言って手を差しだせば、ネコ娘はふわりと微笑んで、手を伸ばした。鬼太郎はその手を掴んで、彼女を立ち上がらせようとしたのだけど、ネコ娘が足元の雪に自らのそれをとられてしまって――――
「……きゃっ!」
「ネコ娘!」
鬼太郎もネコ娘も初めて味わう温もりを感じた。
きっとほんのわずかな。
永遠という時のなかでは、きっと見えもしないような。
だけど二人の吐息は確かに重なりあった。
違う、今もなお。
その時より少し離れた互いの半開きになっている唇が、触れるか触れないかというくらいの距離にある。きっとあと少し、どちらかが顔を寄せれば、意図も簡単に重なってしまうだろう。
先に反応したのは鬼太郎だった。
「ネ、ネコ娘! ご、ごごごごめんっ!!」
「う、うううう、ううん!」
「………」
「………」
何をやってるんだろう――自分達は。
ネコ娘は鼻の奧がツンとなった。整理的なものが込み上げてくるのを、必死に耐える。それは悲しいからだとか、嫌だからではもちろんない。その逆でしかない。
不意の事故でも、たったあの一瞬で泣きたくなるくらいに、幸せだと、そうった。今までも彼に対して好きだと思ってきたけれど、これほどまでに鬼太郎を愛おしいと思ったことはあっただろうか。
自分を今だ見下ろす鬼太郎の頬は紅い。他の誰でもない――自分がそれをさせている。
どうしようもないくらいに、この男(ヒト)が好きなのだと、ネコ娘は思った。
「……きたろう」
「ネコ娘?」
「あのね 鬼太郎。もうひとつ、昔のことで訂正させて」
「え………」
ゆるゆるとネコ娘の腕が持ち上がって、いつの間にか脱げていた手袋がはめられていた手で、鬼太郎の頬に触れた。
あたたかいネコ娘の指に、鬼太郎の心臓はとくりと鳴る。
けれど、さらにその先の彼女の言葉に鬼太郎はひとつしかないどんぐり眼を、見開いた。
「大嫌いだなんて、嘘だからね。あたしは鬼太郎を嫌いになんてなれないんだもん。どうしたって、鬼太郎じゃなきゃだめなの」
「……っ」
今までにない、ネコ娘のはっきりとした言葉に、鬼太郎は何も言えない。
ただただ、心臓が煩くなって、くらりと目眩がしそうになってしまう。自分が組み敷いたままの形の下、嬉しそうに笑う彼女に、愛しさが溢れそうになる。
雪の布団の上に無造作に散らばる林檎色の髪も、彼女を可愛く見せる桜色のリボンも、見上げてくる黄金色の瞳も、この雪と同じくらい白い頬も、すべてに。
――触れたくなった
「………僕も」
そっと一度離した身体を屈めて。
そっと額を彼女のそれに寄せて。
そうすれば鬼太郎の亜麻色の髪とネコ娘の明るい髪が混ざりあう。それがくすぐったいのか、ほんの少し身をよじったネコ娘の姿に、鬼太郎の理性はどこかへ消えてしまった。だから。
彼女にだけ聞こえるような声でそれを囁けば、その瞳が今までで一番大きく揺れたのを、鬼太郎は見つけた。
- f i n. -
まいまい様ー! 相互して頂き、ほんとにありがとうございました(ぺこり!)^^
長いうえ、リクエストの「不可抗力でキス」にあっているお話かどうか微妙な感じになりましたが、貰って頂けたら幸いでございます〜。
これからも末永く仲良くしてくださいvv