山村新治郎 (11代目)



11代目山村新治郎(やまむらしんじろう 1933年4月28日生)
 [政治家]


 千葉県香取市に江戸時代から代々米穀商を営む家に生まれ、九代目新治郎のころから深く政界にかかわり合いを持ち、父の10代目新治郎は、衆議院議員として予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、池田内閣において行政管理庁長官を務め、政界に重きをなした。千葉県立佐原高等学校卒業、学習院大学法学部政治学科中退。学業半ばにして、生きた政治の世界を学ぶべく、父新治郎の秘書として政界への第一歩を踏み出した。1964年、31歳の時に父の後を継いで衆院旧千葉2区補欠選挙に立候補し衆議院議員に初当選する。

 山村の名前を一躍有名にしたのが、よど号ハイジャック事件である。1970年、山村が運輸政務次官を務めていた時にハイジャックが発生。当時の橋本登美三郎運輸大臣と共にソウルに向かい、交渉の末、乗客の身代わりとして人質になり、よど号に搭乗して犯人らと共に北朝鮮に向かい、その後解放されて帰国した。この英雄的行動により「男やましん」「身代わり新治郎」として山村新治郎の名が広く知れ渡った。

 1976年の総選挙で落選するも、1979年の総選挙で再び当選し国政復帰を果たす。1983年12月27日成立の第2次中曽根内閣で農林水産大臣として初入閣。1989年6月3日成立の宇野内閣で運輸大臣を務める。宮沢内閣では衆議院予算委員長に就任した。

 1992年、自民党訪朝団団長として北朝鮮への訪問を翌日に控えた4月12日、精神疾患を患った24歳の次女に自宅にて出刃包丁でメッタ刺しにされ急逝した。当時健在であった母の目の前での惨劇であった。北朝鮮に訪問の際には22年ぶりによど号グループ首謀者の田宮高麿と会う予定であった。日本国憲法下で他殺された現職国会議員は浅沼稲次郎丹羽兵助に続いて三人目。次女は引きこもりがちであったと言うが、茶道教室に通う等をしていた。また、よど号事件の時は次女は2歳であったが、身代わり人質で有名になった新治郎を羽田空港で出迎えている。新治郎の選挙をよく手伝っていたことから、後援会関係者からは「次女を後継者に」と言う声も挙がる一方で、次女の精神疾患に気付く者はいなかったという。次女は心神喪失により責任能力なしと判断され不起訴となるが、4年後に自殺している。

 事件後、後継者として次弟の山村章の名前も挙がったが、余りにも悲劇的な事件であったため山村家から候補者は出ず、先代から続いていた後援会は解散し、政治家としての山村家の歴史は終焉を迎えた。

 1992年4月12日死去(享年58)


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