ハマノパレード



ハマノパレード(1969年3月18日生)
 [競走馬]


 小柄で華奢な馬であったが、入厩当初から調教で軽快な動きを見せ、その素質はデビュー前から高く評価されていた。一方で非常に気性が激しく、日常の世話にも手こずるほどの悍馬であった。このため、癖馬扱いの名人として知られた引退厩務員の田原豊蔵を招き、特に許可を得てハマノパレード専属の担当者とした。しかし調教においては変わらず悍性がきつく、まともな調教はできなかったという。

 1971年10月16日に初戦を迎える予定であったが、骨膜炎で直前に出走を取り消す。態勢を立て直した後、翌月にデビューを迎えたが、満足な調教をしておらず、また馬体も幼かったため、初勝利までには年を跨いでの4戦を要した。しかしこの頃より成長が見え始め、2月までに特別戦で2勝を挙げ、クラシックへ出走可能な賞金を上積みした。

 しかし皐月賞への前哨戦・毎日杯では9着と精彩を欠く。さらに休みなく出走を続けていたことにより、京都4歳特別出走時には430kgあった馬体重が410kgまで減少しており、3着に終わった。陣営は未だクラシック出走のレベルにないと判断し、クラシックを断念。ハマノパレードは長期の休養に入った。

 10月に復帰。休養で馬体が充実、また田原ら陣営の努力で気性面でも良化を見ており、復帰初戦から700万下条件戦、オープン戦を連勝。勢いに乗り、天皇賞優勝馬ヤマニンウエーブ参戦の阪神大賞典にも優勝し、重賞を初勝利を挙げた。しかし翌年初戦の日経新春杯は重馬場に脚を取られたこともあり、6着に終わる。

 2月に従来の主戦騎手であった吉岡八郎が騎手を引退し、次走の京都記念(春)から新たな鞍上に田島良保を迎えた。この競走で、菊花賞優勝馬ニホンピロムーテーを退け重賞2勝目を挙げる。続く二走を僅差の2着として、天皇賞(春)に出走。ピークの状態で臨み、当日は5番人気に支持された。レースでは緩やかなペースで逃げながらレースを進めたが、要所の最終コーナーでタイテエムと接触して大きく躓き、8着に終わった。

 次走は宝塚記念に出走。得意の中距離戦ながら4番人気という評価だったが、好調を維持していた田島ハマノパレードは、スタートからハイペースで後続を引き離した。最後の直線では2番手につけたタイテエムに馬体を併せられるも、先頭で逃げ切り優勝。

 続いてハマノパレードは高松宮杯に進んだ。このレースでも1番人気の天皇賞馬・ベルワイドを相手に、宝塚記念と同様のレース運びで先頭を進んでいた。そのまま最後の直線に入り、2番手のタケデンバードを突き放したが、残り200mの地点で馬が手前を替えようとした際に脚がもつれ、前のめりに転倒、競走を中止した。この事故で田島は馬場に叩き付けられて肩甲骨を骨折。そしてハマノパレードは左第一関節脱臼および左第一指節種子骨粉砕骨折を発症しており、競走後に予後不良の診断が下された。

 現在であれば予後不良の診断が下された馬は薬物投与による安楽死の処置を執られることが原則となっているが、ハマノパレードにそうした対応は行われず、苦痛の軽減処置を施されないまま、翌朝になって愛知県近郊の屠殺場へ送られた。その馬肉は同日中に「さくら肉『本日絞め』400キログラム」という品目で市場へ売りに出され、やがてこの事実がスポーツニッポンで記事として取り上げられ、大きな反響を呼んだ。

 その後、時代の変遷に伴う動物愛護意識の浸透と共に、重度の故障を発症した競走馬については屠殺が原則的に行われなくなり、予後不良の診断が下ってその後の必要な諸手続きが完了次第、即刻薬殺されるシステムが整備されていった。

 1973年6月25日死去(享年4)





w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ