梅川昭美



梅川昭美(うめかわあきよし 1948年3月1日生)
 [三菱銀行人質事件の犯人]


 広島県生まれ。父が46歳、母が42歳という高齢で生まれた息子だった。しかもこの数年前に姉が夭折していたため、幼児期は可愛がられたという。しかし8歳のときに両親が離婚し、以後は極貧生活を送った。1963年4月には私立広島工業大学付属工業高校へ進学したが1学期で退学し、その年の12月16日に強盗殺人事件を起こして逮捕されたが、少年法により1年半ほどで中等少年院送致だけで済んでいる。出所後の1966年1月に大阪に移るが、1967年に父が死んだときも通夜・葬儀に顔を出すことは無かったという。

 その後も非行を続けたといわれ、消費者金融などに多額の借金をしたという。1973年7月30日には上下二連式散弾銃を大阪市で購入した。

 1979年1月26日の閉店近く、チロルハットを被り黒スーツに黒サングラス、白マスクで身を包み、5000万円を強奪する目的で銀行に押し入り、ニッサン・ミロク社製の猟銃を天井に向けて2発発砲した。梅川は現金をリュックサックに入れるように行員を脅したが、その際に非常電話で通報しようとした20歳男子行員を見つけ射殺し、流れ弾に当たった男子行員と跳弾に当たった女子行員を負傷させた。観念した男子行員が現金を詰め込み、梅川は警察が到着する前に銀行から逃走する予定であったが、逃げ出した客が自転車で警ら中の係長・楠本正己警部補(52)に通報し、事件は発覚した。

 梅川の予想より遥かに早く楠本正己警部補が銀行に駆けつける。楠本正己警部補は梅川に銃を捨てるよう要求し天井に向けて威嚇発砲をしたが、梅川は楠本正己警部補の顔と胸を撃って射殺した。その数分後に逃げてきた別の客からの通報を受けパトカーで駆けつけた前畠和明巡査(29)と永田幹生巡査長(34)にも発砲し、前畠和明巡査を射殺した。もう一人の永田幹生巡査長は防弾チョッキを着ていたため無事だった。

 午後2時35分に大阪府警に銀行の異常事態が通知され、3分後には大阪府内の全署に緊急配備指令発令。緊急配備から2分後には武装警官およそ320名が銀行を包囲し、銀行付近500メートルの道路を閉鎖。すると梅川は行員にシャッターを下ろすよう命じ、銀行の出入口を閉鎖したが、その際現場に到着していた警察官がとっさに近くにあった看板や自転車等をシャッターの下に置いたため、40cmの隙間を残してシャッターが下りなかった。

 シャッターが閉じられた店内には梅川と客12人と行員31人の合計43人が人質に取られたが、うち親子連れと妊婦の客4人はすぐに解放されたため、39人が人質に取られることとなった。また人質とは別に梅川に気付かれずに貸し金庫室などに隠れた客5人が店内に残された。店内の状況は凄惨で、梅川によって殺害された死体とともに人質に取られていた。銀行行員を裸にして用便も許されず、負傷した男子行員の耳を同僚に切り取らせるといった残虐非道な行為も行われた。

 銀行に籠城した梅川は47歳の支店長をなじると、猟銃を至近距離より発射し支店長を射殺した。この猟銃は上下2連でピストルより命中率が高く、殺傷力も強いものだった。支店長を射殺した梅川は狙撃隊から自分の身を守るために男子行員全員は上半身のみ裸、女子行員は電話係を除く19人全員が全裸になり『肉の盾』となるよう命令する。梅川は男の下半身は見苦しいから見せるなとして下半身はそのままだったが、女子行員についてはただ脱がせただけではなく、ブラウス、ブラジャー、パンティに至るまで、ストリップを観るがごとく、じりじりと楽しむように服の脱ぎ方の順番までも指示していった。その後、梅川は片親の女子行員1人のみ服を着ることを許している。

 やがて、こういう状況の中でも冷静沈着な最年長の男子行員を生意気だと怒った梅川は再び猟銃を発砲し、男子行員に重傷を負わせた。梅川は別の男子行員にナイフでとどめをさすように命じるが、「もう死んでいる」と命令された行員は嘘をつく。

 すると梅川は映画『ソドムの市』で死人の儀式を行うワンシーンの話を出した上で、「そんなら耳を切り取ってこい。」と新たな命令を出す。命じられた行員は激しく抵抗するが、散弾銃で撃たれた遺体と猟銃で狙われている恐怖で、死んだふりをしていた行員の左耳を切除し、その耳を梅川に差し出した。すると梅川は耳を口にして、まずいと言って吐き出している。耳を切り取られた行員は失神するも、夜明けに目覚め、左耳から流れる血液で、「Y(妻の名前) ツヨクイキロ コドモタチモツヨクイキロ」と遺言を書くも、後から流れ出る血液で遺言は消えてしまったと後にマスコミのインタビューに答えている。その後も梅川は行員らに向けて威嚇発射をするなどいたぶって喜んでは、ささいなことで癇癪を起こして「コロすぞ!」と怒鳴りながら真剣な顔をして銃口を突きつけたりした。

 事件発生から警察は銀行の2階の事務室に特別捜査本部をかまえた。大阪府警本部長の吉田六郎自らが捜査本部長を務めた。ここから1階の梅川と電話で会話できるようホットラインを設置。外から当初パトカー113台、警官644名が銀行を包囲、銀行の半径1km内の交通をすべて遮断。本部は銀行の図面から、北と東のシャッターと2階のドアなどドリルで小さな穴を7つ開けて、外から中の様子を観察しようと試みた。午後6時半、ようやくひとつの穴から、行内が見渡せるようになったが、店内は警官や行員の遺体が転がり、そのそばで「肉の盾」が動いている異様な光景が見えた。そのほかに現金自動支払機を動かしその隙間からも室内を偵察していた。

 吉田はこの3月で退官する予定だったが、事件発生当時は出張中だったため、彼が出張先から戻るまで刑事部長だった新田勇が現場指揮にあたった。吉田が2府2県本部長会議で訪れていた出張先の京都から戻った時も梅川の素性が不明であったが、深夜岐阜県多治見市内で職務質問された男の自供から、犯人が梅川であり、頼まれてライトバンを盗んだこと、梅川から銀行強盗の相棒を頼まれたが断ったこと、短気で感情を爆発させると何をするかわからない性格であることを多治見署ですべて供述していたことで梅川の素性が判明した。また彼の証言通り、梅川が15歳で強盗殺人の罪で服役したことが判明する。

 人質はトイレに行くことも許されなかったが、梅川が許可を出したときのみカウンターの隅で用を足すことを許されていた。用を足しにきた行員らに、警察は2階から励ましたり、作戦計画を伝えていた。

 夜、梅川が警察に要求したビーフステーキとワインが届けられる。人質にはカップラーメンが差し入れられたが、「栄養がない」と梅川が怒り、代わりにサンドイッチや胃薬が差し入れられた。このカップラーメンは後に梅川が食べている。午後9時半、ひどい風邪をひいている女子行員が解放された。警察は梅川が食べるビーフステーキに睡眠薬を入れることを検討したが、舌を刺激するという理由で断念している。なお、梅川は差し入れられた食事は全て人質に毒味をさせた後で口にしていた。

 日付は変わり、しばらく膠着状態が続いていたが深夜2時頃、人質の客(76歳男性)がトイレに行かせてくれと申し出たところ梅川は年齢を聞くと解放。同じころ、大阪府警は銀行の3階の女子更衣室に作戦指揮室を開設して指揮に当たった。

 数時間後、ラジオの差し入れが遅いことに腹を立てた梅川は、ロッカーに向けて発砲。跳弾が客と男子行員の合計2人に当たり負傷。夜明け前にラジオが差し入れられ、そのラジオのニュースで実名が誤った読み方で報道されていたことに激怒し、捜査本部に「報道のやつらにアキヨシだと言っておけ!」と言い放った。

 1月27日の午前8時前に人質の客(41歳女性)が解放され、9時30分には退職した大阪府警捜査一課の元刑事(57歳男性)が釈放。梅川に職業を聞かれたとき、元刑事は身分を大工と偽っていたが、梅川はまったく疑わなかった。だがラジオが差し入れられてから、いつ梅川が自分の嘘に気づいて激怒して猟銃を発射するかと思うと生きた心地がしなかったと、マスコミのインタビューで述べている。

 10時半ごろ、梅川の母親と亡き父の弟が捜査本部に到着し、説得を始めるも梅川は電話を切ってしまい失敗に終わる。母親の説得が終了すると、梅川は全員に服を着ることを許可して、昼までに2人の人質(いずれも女性客)を解放した。

 その後、差し入れてもらった朝刊を女子行員に朗読させ、銀行中の800万円の現金を用意させると、梅川は借金の支払い先を書いたメモを男子行員に渡し、借金を返済してくるよう命じる。午後1時半、弁当の差し入れと引き換えに人質の客(24歳の女性)を解放。午後3時前、梅川の借金返済のため男子行員がハイヤーで出発し(同日午後10時ごろ銀行に帰る)、覆面パトカーが追跡。ハイヤーに乗った男性が人質の銀行員らしき情報が報道陣に流れるも、この借金返済についてマスコミが知ったのは事件解決後であった。なお、この借金返済は法律上無効であり、借金返済の金は警察によって回収され銀行に戻された。

 午後3時半、リポビタンDの差し入れの後に人質の客(19歳の女性)解放。しばらくして行員の申し出によって、3人の男子行員の負傷者を解放される。3人のうち2人は大阪府立病院に、残る1人は阪和記念病院に救急車で搬送。それから1時間後の午後5時前、最後の人質の客(25歳の男性)解放。梅川はこの人質が最もお気に入りだったらしく、この人質をKちゃんと愛称で呼ぶほどだった。午後6時、梅川に気づかれずに隠れていた客(合計5人)が、応接室、貸し金庫室、カウンターから捜査員の誘導により無事脱出され、梅川は5名の存在も脱出も知らなかった。この際民間の錠前技術者が府警の要請により技術協力し通用口等の鍵を解除、脱出支援を行った。

 梅川は夕食とシャトー・マルゴーを要求(当時、このワインの名を知る人は少なかった)。銀行の向かいの酒屋にこのワインがなかったので、シャトー・ランゴア・バルトンとなる。午後7時、梅川がシャッターの穴に気づき、行員に穴を塞ぐように命じる。だが東のシャッターの穴だけは唯一、気づかれず事件終了まで梅川や行内を監視しつづけた。深夜、遺体の腐敗臭が強くなると、梅川と行員が協力し合って遺体を移動させる。1月28日の午前0時から、捜査本部は人質の苦痛はすでに限界と判断して突撃作戦を開始する。

 朝からチャンスをうかがっていた警察は人質の見張り役が前夜外出した行員と交代した直後突入準備を開始。トイレにきた行員から「今回はチャンスがあると思うので合図しますからよろしく」との伝言を受け、突撃隊に待機させた。直後梅川の至近距離にいて射撃の際に被弾する可能性のあった女子行員がお茶を入れるために離れた。のぞき穴から監視していた警察官からの報告を受け吉田本部長は強行突破を指示。突撃隊7名はトレーニングウェアを着用して匍匐前進で侵入。


 1月28日午前8時41分、警察の作戦を知らされていた唯一の男子行員が、新聞を読んでる最中に居眠りをしていて、猟銃が手から離れていた梅川を確認して警察に合図した直後、7名の大阪府警察本部警備部第二機動隊零中隊(SAT前身部隊)が銀行に突入する。機動隊は38口径拳銃で8発発射し、そのうち3発が梅川に命中した。担架で固定された瀕死の梅川を逆方向にして、前を救急隊員、後ろを刑事が担いで運び出すが、救急車にたどりつく寸前で後方の刑事が転倒する。このハプニングが致命傷となり梅川は死亡したという説や、すでに銀行内で即死していたという説もあるが、公式発表は出されなかった。梅川は天王寺の大阪警察病院に搬送、意識不明の重体であったが脳波は確認され、大量の輸血と銃弾の摘出手術を受けるも、右の頸部の貫通銃創が致命傷となり同日午後5時43分に死亡した。梅川は自分のサングラスや帽子と弾を抜いた銃を男性行員に持たせる偽装を行っていたが、警察には見抜かれていた。

 この事件により大阪府警捜査一課は現場捜査本部に100名派遣、およそ1億8千万円が事件解決のため投入された。

 梅川は高校を半年で中退して学歴はなかったが、毎月本に1万円を費やすほどの読書家であった。「ヒトラー」「ムッソリーニ」「スターリン」「チャーチル」「ドストエフスキー」「ニーチェ」などの伝記物、大藪春彦などのハードボイルド小説、六法全書、経営学、医学などの書籍が600冊出てきた。中学・高校の成績は平均以下だったが、本好きのため国語だけは高かった。また、バーテンやツケ取り立て人として不特定多数の客と長い間接してきた体験で記憶力が高く、39名の人質の顔と姓名を全部覚えていたという。

 1979年1月28日死去(享年30)

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