川藤展久



川藤展久(かわふじのぶひさ 1949年生)
 [瀬戸内シージャック事件犯人]


 岡山県で6人兄弟の三男として生まれる。父親は船員、母親は新興宗教信者で家は留守がちだったという。中学に1年通っただけで行かなくなり、広島、福岡、東京など全国を転々と放浪していた。1967年、広島で工員となったが、20件余りの窃盗事件を起こし逮捕され、1969年春に出所してからは定職に就いていなかった。

 1970年5月10日、20歳になった川藤は、パチンコ屋などで知り合った少年2人と一緒に福岡市内で乗用車を盗み、広島方面に向けて走らせていた。しかし5月11日午前12時20分ごろ、山口県の国道2号の検問で追い越し禁止区間で追越する交通違反をし停車命令され、盗難車を運転していたことが発覚し逮捕された。3人はパトカーと盗難車に分乗して小野田警察署に連行されていたが、盗難車に乗せられていた川藤と少年Aは、隠し持っていた猟銃を警察官に突きつけ、少年Aが警察官(当時43歳)の胸を刺し、2週間の怪我を負わせた。少年Bはその場で拘束されたが、川藤と少年Aは逃走した。

 逃走した2人は車を奪い宇部市まで逃走し、そこで服装を変えた上で、2人は当時国鉄広島駅前にあった広島中央郵便局を襲撃して金銭を得て大阪に向かおうと漠然に考え、土地勘のある広島市に山陽本線で向かい、広島駅のひとつ手前の横川駅で下車したが、非常線が既に張られていたため、身を隠すために山中に入った。その日の夜は広島駅近くにある二葉山の仏舎利で野宿した。

 5月12日昼ごろ、市民から山中で猟銃を持った二人組がいるとの通報を受け、警察は直ちに警官を急行させたが、現場が住宅密集地であることから捜索が困難なものになった。川藤は午後2時50分頃、国鉄芸備線の踏切にいるところをプロパンガス販売業の配達用軽トラックに便乗していた警察官(当時25歳)に発見された。鉢合わせした警察官は威嚇発砲したが動じず、軽トラックの運転手(当時39歳)を猟銃で撃ち殺すと脅迫したため、警察官は軽トラックの荷台に拳銃と実弾を投げざるを得なかった。なお、猟銃であるが薬莢が野宿の際に雨で濡れていたため発射不能であったという。川藤は軽トラックの運転手を脅迫し市中心部に向かった。なお、拳銃を奪われた警察官であるが近くに潜んでいた少年Aを発見し格闘の上で逮捕した。

 一人になった川藤は、午後4時ごろ広島県警本部と目と鼻の先にある立町の銃砲店から、店員や客を休憩室に押し込めた上でライフル銃など三丁と弾丸80発、散弾250発を強奪し、タクシーで検問を突破し宇品港(広島港)に向かった。川藤は待合室を乱射しながら桟橋に向かい、船舶への乗船を阻止しようとした警戒中の警察官に発砲し負傷させ、そして停泊していた愛媛県今治市行きの瀬戸内海汽船所属の定期旅客船「ぷりんす号」に乗り込み、船長を「どこでもいいから大きな街に行け!」と脅迫して午後5時15分に出航させた。この時「ぷりんす号」に乗り込んでいた乗員9人と乗客37人が人質となったが、ぷりんす号の乗船券を持っていたのは18人で、残りの15人は見送り客など桟橋に居合わせていて巻き添えで乗客になった。

 その後「ぷりんす号」は瀬戸内海で逃走を続けたが、ここでも川藤は傍若無人な振る舞いを続けた。まず元宇品沖で広島県警の警備艇「こがね」の操舵室を狙撃し、同乗していた警部補の胸に貫通銃創の重傷を負わせた。また偶然モーターボートで遊んでいた一般人2人を狙撃したほか、地元の中国新聞と中国放送がチャーターしたセスナ機を銃撃し、燃料タンクを貫通し燃料が漏れ出し、同機をあやうく墜落させかけた。なお、この事態に対し、呉をはじめとする広島県沿岸各地に警察官が配置され、広島県警に在籍する警察官3715人中1256人が事件に動員されたほか、海上保安庁の巡視艇も警戒に当たった。一連の追跡劇で動員された船舶は、県警警備艇5隻、チャーター船1隻、海上保安庁の15隻に上ったほか、海上自衛隊も県警の要請により掃海艇と支援艇を派遣し協力し、4号魚雷艇には警察官が乗船して追尾した。また、近隣県警本部からの応援も含め、ヘリコプター多数も出動した。警察庁は最悪の場合川藤の射殺をやむなしとして大阪府警察のライフル銃の狙撃手5人を海上自衛隊機で現場に派遣したほか、愛媛県警察も強行突入に備え催涙ガスを準備し、福岡県警察のライフル銃の狙撃手を待機させた。なお、多くの報道各社の航空機も投入され、現場から生中継するなど報道合戦が繰り広げられたが、これは事件の前月に発生した「よど号事件」に近いものであった。

 「ぷりんす号」は愛媛県の松山観光港に午後9時40分に入港した。その際川藤は、船長(当時43歳)を交渉役にして、代わりの船か給油をさせれば乗客を降ろすと要求した。愛媛県警は代わりの船の要求には応じなかったが、給油は行った。なお愛媛県警は給油時に係員に変装した警官2人を船に乗せ、隙を見て犯人を取り押さえる計画を立てたが、川藤に「油をつんでも、人間はつむな」と要求されたことから断念した。

 その後、乗客は全員解放されたが、乗員は解放されず、「ぷりんす号」は翌日午前0時50分に松山観光港を出発した。「ぷりんす号」は一時来島海峡に向かい今治市沖に到達したあと針路を変え8時50分に宇品港に戻ってきた。この時、川藤は逮捕された仲間を連れて来いと要求した。また岡山県に住む父親(当時58歳)と姉は川藤に投降を呼びかけたが、彼はこれに応じずライフル銃を乱射し、警察官1人が撃たれて重傷を負い、強行偵察中の警察のヘリも撃たれて墜落寸前となった。一連の犯行で川藤の被疑容疑は刑法の殺人未遂罪、強盗罪、公務執行妨害罪、逮捕監禁罪、艦船損壊罪、器物損壊罪、強要罪のほか暴力行為等処罰に関する法律および航空法違反と多数であった。また最終的に使用された散弾は64発、ライフル銃弾は50発であった。

 船長はいったん船外に出て犯人の要求を伝えたが、同時に「犯人は警官隊と打ち合いになって死にたい」と思っていることも伝えた。また川藤が再び「ぷりんす号」を出航させる気でいることも判明した。そのため広島県警はこれ以上の被害拡大を恐れ、須藤博忠県警本部長が現場で確認したうえで、場合によっては緊急避難措置として射殺も致し方ないとして発砲を許可した。なお、県警本部長は後に「急所を外すように指示した」という。

 9時52分、川藤が乱射を一時中断し、デッキに出て一瞬下を向いた際に40m離れた防波堤に待機していた大阪府警の狙撃手(当時41歳)が川藤に一発射撃した。川藤はその直後にその場に崩れ落ちた。船長が聞いた川藤の最期の言葉は「死んでたまるか、もういっぺん」であったという。この瞬間はテレビにより生中継されていた。また血まみれになりながらも逮捕される様子は新聞に掲載された。

 左胸部に銃弾が貫通した川藤は、県立病院に搬送され緊急手術を受けたが午前11時25分に心臓大動脈切断による失血死で亡くなった。父親は「親として、死んでくれてせめてもの償いができた。警察に抗議するつもりはない」と語った。

 1970年5月13日死去(享年20)


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