バド・ドワイヤー



ロバート・バド・ドワイヤー(Robert Budd Dwyer 1939年5月28日生)
 [アメリカ・政治家]


 ペンシルベニア州ミードヴィルのアレゲニー大学を卒業。彼は教育に関する修士号を得てケンブリッジ・スプリングス高等学校で社会科を教え、アメリカンフットボールのコーチをした。共和党員として、ドワイヤーは1965年から1970年までペンシルベニア州下院議員を、1970年から1980年までペンシルベニア州上院議員を務めた。上院議員としての任期を終えた後、ドワイヤーは州の財務官に就任した。

 1980年代前半、州の職員は数百万ドルの連邦保険分担税を余分に払っていた。結果、州は各職員への払い戻しを計算するために入札を行った。この入札はハリスバーグに住むジョン・トルクァート・ジュニアが所有する、カリフォルニア州を本拠とする会社、コンピュータ・テクノロジー・アソシエーツが落札した。トルクァートは、自身の地域のコネクションと460万ドルとも言われる賄賂を使った。この入札に絡む汚職事件を告発する匿名のメモがペンシルベニア州のディック・ソーンバーグ知事の下に届いた。

 1986年後半、ドワイヤーは30万ドルの賄賂を受け取ることに同意した容疑で告発された。司法取引がトルクァート、共和党ドーフィン郡委員長のウィリアム・スミス(トルクァートの弁護士)とその妻によって行われた。司法取引は彼らにドワイヤーに不利な証言をすることを要求していた。これは、この事件において起訴されなかった共謀者たちを明らかにすることに対する政府の拒否とあいまって、ドワイヤーが抗弁することを困難なものとしていた。起訴されなかった共謀者たちはドーフィン郡共和党の職員と思われる。この間、州検事長は賄賂を受け取ったという訴因を認める答弁書、財務官からの辞職、そして捜査への協力の代わりに最大5年の禁錮をもたらす司法取引をドワイヤーに提案した。ドワイヤーは辞職を拒み、彼に近い他の人間がそうしたように、後に有罪判決を宣告されても自身の無実を主張し続けた。州法では、ドワイヤーは服役まで州財務官を続けることが出来た。ドワイヤーが直面した判決は最大55年の禁錮と30万ドルの罰金だった。しかし、彼の共同被告人であるロバート・アッシャー元州共和党委員長は禁錮1年となった。アッシャーは後に政界に戻り、ペンシルベニア州の共和党全国委員となった。

 収監前日の1987年1月22日、ドワイヤーは「状況の最新情報を与えるため」の記者会見を開いた。多くはドワイヤーが辞職することを発表すると予想していた。記者会見において、興奮し苛立っていたドワイヤーは再び自身の無実を主張し、州財務官を辞職しないことを宣言した。

 一通り発表を終えると、三人の職員を呼び寄せ、彼らに封筒を一通ずつ渡した。一つ目の封筒には彼の妻に対する遺書が入っていた。二通目の封筒には臓器とその他の器官のドナーカードが入っていた。三通目の封筒にはこの日のわずか二日前に就任したペンシルベニア州のロバート・P・ケイシー知事に宛てられた手紙が入っていた。

 三通の封筒を渡した後、ドワイヤーは持っていたもうひとつの封筒を開け.357マグナム回転式拳銃を取り出し、出席者に「もしお気に障られるようでしたら部屋を出てください」と忠告した。出席者の中には「バド、止めろ!」「バド、間違っている!」「バド、話を聞け!」とドワイヤーに叫び、銃を下ろすように訴える者もいた。彼に近寄ろうとする者もいた。彼は「やめろ、やめろ、誰も傷付けないから」と警告した。「バド、バド、バド!」と叫ぶ声に囲まれながら、銃身を口に入れ、引き金を引いた。彼は座っていた場所の壁にもたれて倒れ、脳みそは飛び散り、彼の鼻と頭頂部の傷からはおびただしく血が流れた。5台のテレビカメラの前の全ての人々は、衝撃のあまり、鋭く叫び、品のない言葉を口にしていた。ドワイヤーの死は現地時間の11時31分に確認された。

 ペンシルベニア中のテレビ局の多くが白昼の視聴者に対し、その場面を生放送していた。折りしもこの日、ペンシルベニア中を大吹雪が襲い、ほとんどの学校が休校していたため、子供たちの多くが自殺を目にすることとなった。

 1987年1月22日死去(享年47)


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