グラハム・ヒル



ノーマン・グラハム・ヒル(Norman Graham Hill 1929年2月15日生)
 [イギリス・レーシングドライバー]


 F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レースの「世界3大レース」全てでの優勝経験を持つドライバー。特にモナコGPには滅法強く、2010年現在で史上2位タイの5勝をあげ、「ミスター・モナコ」と呼ばれた。1990年代以降の日本では「モナコ・マイスター」と呼ばれることがある。息子のデイモン・ヒルが後にF1タイトルを獲得するが、親子二代揃ってF1チャンピオン獲得経験を持つのも、ヒル親子が初であり唯一となっている。同時期に活躍したジム・クラークが「天才肌」として語られることが多いのに対し、グラハムは「努力型」の代表的なドライバーとして扱われることが多い。

 ロンドンのハムステッドで生まれる。一時期はボート競技の選手で、後にヘルメットに「オール」のマークをデザインするようになる。下積みのメカニック時代を経て、1958年にロータスからF1デビューを果たし、2年間在籍。しかし、この際には芳しい成績を残すことは出来なかった。1960年にはBRMに移籍。ここでも当初は目立った成績を残していなかったが、1962年に開幕戦オランダGPで初優勝。最終的にシーズン4勝を挙げ、ロータスのクラークを破って、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめた。その後もリッチー・ギンサーとの名コンビで活躍しクラークと並び、当時のF1界の2大スタードライバーと呼ばれた。1964年は最終戦までチャンピオン争いがもつれたが、ポイントリーダーのヒルはフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われた。初優勝の1962年からは1965年まで、毎シーズン2勝以上を挙げる活躍を見せていたが、新加入のジャッキー・スチュワートに迫られる場面が増えていた。1966年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、6シーズンぶりの未勝利に終わってしまう。ヒルは成功を共にしたBRMを離れ、ライバルチーム、ロータスへの移籍を決意する。

 1967年のロータスは、クラークとヒルの豪華なジョイント・ナンバー・ワン体制となった。しかし当時のロータスは完全にクラークを中心としたチーム作りを行っていたこともあり、ヒルはクラークの陰に隠れてしまった。しかし1968年にクラークがF2参戦中に事故死したのを受け、ヒルは自らの活躍で沈むチームスタッフを奮い立たせた。この年3勝を挙げ、6年ぶりに自身2度目のチャンピオンを獲得した。しかし、1969年は新加入のヨッヘン・リントに速さで劣り、またしてもチームメイトの陰に隠れる形となる。第3戦モナコGPでは、自身5度目の同GP優勝を記録したが、これは最終的に自身最後の優勝となった。リントが初優勝した第10戦アメリカGPでは、自らはエンジン再始動時のアクシデントで脚を骨折する重傷を負ってしまう。

 前年の負傷キャリアの転機となり、ロブ・ウォーカー・レーシング・チームのプライベート・ロータスで走ることになった翌1970年以降、かつての速さをとり戻すことはなかった。これ以後は優勝はおろか、表彰台に昇ることすら1度も無かった。やがて、その熱意は自らのチームを立ち上げ、自ら運転する「オーナー・ドライバー」の夢へと向かうことになる。1973年に、自分のチームであるヒル(Embassy Racing With Graham Hill)を結成。初年度はシャドウ、翌1974年はローラからシャシーを購入して参戦したが、自らのドライビングによる第7戦スウェーデンGP6位入賞以外は結果を残せずに終わった。他所から手に入れたシャシーを使っての参戦だったヒルであったが、1975年の第4戦スペインGPから念願の自社製シャシーGH1で参戦を開始した。ところが自社製シャシーGH1は競争力に欠け、過去5勝を記録したモナコGPで予選落ちを喫した。このレースを最後にF1ドライバーを引退し、監督業に専念した。その後は、新鋭のトニー・ブライズとアラン・ジョーンズの頑張りにより、チームはこの年3ポイントを獲得している。

 1975年シーズン終了後の11月、今シーズンの結果に満足しないヒルは、早速翌シーズン用マシンGH2のテストをフランスで決行した。旧マシンと同じく戦闘力の低さに泣かされたテストを終えた帰路、ヒル自ら操縦していた軽飛行機がゴルフ場に墜落。同乗していたメインドライバーのトニー・ブライズ含むチームのメンバーたちと共に、ヒルは帰らぬ人となった。天候が悪化していたエルストゥリー飛行場に脚代わりの自動車が置いてある事から、ヒルが無理矢理着陸を強行した事が起因とされる。何度かの大クラッシュを生き延び、18年間走り続けたドライバーの皮肉な最期だった。その際に保険に加入していなかった事が、グラハムの遺族に莫大な補償金を背負わせる結果を招き、その後ヒル家は一転して窮乏生活を強いられる事になってしまった。この時、長男のデイモンは15歳で、後に彼も父と同様、レーサーを志す事となった。

 1975年11月29日死去(享年46)


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